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第4回北海道淡水魚保護フォーラム

上川のサケとアイヌ

瀬川 拓郎 (せがわ たくろう)
 旭川市博物館

1 上川アイヌはサケをどれほど捕っていたか

 上川盆地は面積440km2をはかる北海道では最大の盆地だ。ここに川上の人々を意味するペニウンクル、つまり上川アイヌが住んできた。
 19世紀代の上川アイヌは人口150~300人、集落は10~15を数え、おもに石狩川と忠別川の川筋に居住した。各集落の戸数は2~4戸で、まれに10戸を越すものもあった。和人の入植は遅く、明治20年代に入ってからのことだ。
 この上川アイヌは3つの地域的なグループからなっていた。明治9年(1876)の調査によると、上川は3名の乙名(首長)によって「分割支配」され、さらに惣乙名(総首長)がその全体を統括していた。3つの地域とは、石狩川の上流部、下流部、そして忠別川筋のことだ。
 石狩川上流のグループはコタンパウンクル(ムラの上手の人々)、石狩川下流のグループはコタンケシウンクル(ムラの下手の人々)、忠別川のグループはチュップペッウンクル(忠別川の人々)と呼ばれた。明治27年の聞き取りによると、当時まだ3つの地域グループが存続しており、それぞれ「風習」が異なっていたという。
 文化4年(1807)の近藤重蔵『石狩川川筋図』をみると、当時この3つの地域グループにはそれぞれ1個所ずつ和人の番屋(交易所)が置かれていたらしい。この交易所で取引された上川アイヌのおもな産物はサケの干物と獣皮で、弘化3年の記録では上川アイヌは獣皮はキツネ800枚、カワウソ200枚、イタチ1,000枚などを出荷していた。この記録には洩れているが、ヒグマの皮も相当出荷していたのはまちがいない。干鮭の出荷量を知る記録はないが、明治5年の上川アイヌのサケの漁獲は約9万尾、戸口は68戸306人との記録がある。つまり1戸あたり約1,300尾を捕り、その何割かを交易にまわしていたことになる。
 ただし松浦武四郎は、上川のメム集落では一人暮らしの老婆でさえ800尾のサケを捕り、1軒で飼う7匹程のイヌが川に入ってくわえてくるサケだけでも2,000尾になると書いている。イヌが捕らえるサケだけでも明治5年の1戸あたりの漁獲を上回っているわけだ。ほかの地域では1戸あたり10,000尾以上捕っていた例もあるから、上川でも古くは1戸あたり5,000から10,000尾ほど水揚げしていたと考えておかしくない。ちなみに松浦が安政4年(1857)に確認した上川アイヌの戸数は75戸だから、仮に1戸あたり5,000尾を得ていたとすれば全戸で375,000尾、3,000尾としても全戸で優に200,000尾をこえることになる。

2 サケはどの川をのぼったか

 江戸時代には飢饉のおりに天塩・十勝・湧別・渚滑など各地のアイヌが山越えして上川のサケで飢えをしのいだというから、それが事実かどうか措くとしても、各地のアイヌにとって、上川のサケ・バイオマスが突出したものと認識されていたのはまちがいない。遡上が大きく減少していた第2次大戦後でも、水たまりや側溝にまで上ってくるサケがこの地の風物詩となっていた。内陸にはまれなアイヌの一大社会が上川に存在した事実も、この莫大なサケ資源を抜きには考えがたい。
 では、サケは上川のどの川をのぼったのか。つい半世紀前まで遡上があったにもかかわらず、上川盆地のサケの生態に関する情報はきわめて限られている。石狩川の3大支流と呼ばれる忠別川・美瑛川・牛朱別川の遡上の有無について、聞き取りなどから得た情報は次のとおりだ。
忠 別 川:多数の遡上証言・資料がある。上川アイヌのタカラコアイヌからの聞き取りによれば、現在の石狩川との合流付近から上流の旭川市緑東大橋にかけて「一連して好個」のサケ漁場が所在したという。また、明治34年(1901)には道庁水産課が石狩川と忠別川でサケの捕獲を行い、ふ化放流を試みている。さらに、昭和26年(1951)には川筋の東神楽村5号に北海道さけ:ますふ化場天塩支場東神楽事業場が設置されている。第2次大戦直後の混乱期に、忠別川の大正橋付近でサケの密漁を行ったとの証言も多数確認できた。石狩川本流には及ばないものの相応の遡上があったといえよう。
 美 瑛 川:明治23年(1990)の上川離宮調査報告に「鮭魚の如きは絶えて栖息せず」とあるとおり、もともとサケが遡上しない川であった。明治30年(1897)の『北海道植民地選定報文』も、マスは多く遡上するがサケはみられないとする。松浦武四郎は美瑛川について上流に硫黄の気があるため水が白色に濁っているとし、明治21年(1888)『上川紀行』は、その水質のために魚族は棲息しないとする。ただし第2次大戦直後には遡上証言もある。なお、美瑛川には明治35年(1902)に石狩水産組合のふ化場が設置され、大正6年(1917)まで存続したが、美瑛川で親サケの捕獲を行うものではなかった。
 牛朱別川:松浦武四郎が「水わろし」(水質が悪い)と述べ、魚種はマスやイトウが多いとしながらサケは記していない。明治末から大正初期の証言では、遡上止めを設けてマスを多く捕ったものの、サケはみなかったという。具体的な内容ではないものの、サケが遡上していたとの証言が数件あることから、若干は遡上していた可能性はあるものの、遡上河川とみなすことはできないようである。
 サケの遡上河川は石狩川のおもな支流では忠別川のみで、他の中小河川では江丹別川と愛別川のわずか2川だったようだ。
 上川盆地へのサケの遡上時期については、上川ではお盆過ぎに多量の雨が降り、その出水が一段落して水量が秋型に安定してからサケがのぼり始めた、との証言がある。遡上の第一陣が8月15日ころ来るので、盆踊りと重なるのをさいわい密漁に出たともいう。各種の証言を総合すると8月中旬から9、10月にかけてが遡上の最盛期であり、遅いものでは12月まで遡上があったらしい。

3 サケの産卵場はどこか

 サケの産卵場に関する情報・証言もほとんど得られなかったが、アイヌ語地名と湧水帯の分布からその所在地を推定することができた。
 アイヌ語のメムMemは魚が多く入る泉池を意味する地名だが、サケの産卵場と深くかかわっていたようだ。たとえば松浦武四郎は「(上川アイヌは)メムと云て上に清水の涌処有る辺り等に(住居を)作りて・・・・・鮭魚の上る時は背が半も顕る計りの処に住する也」、つまり上川アイヌの住居は上流にメムがあり、サケが大量に遡上する浅い小川のそばに作られる、と述べている。確認できた上川のメム地名は次のとおりだ(以下はいずれも旭川市)。
 亀吉付近:安政5年(1858)の松浦『チクヘツフト支流の図』には2つのメムが描かれており、このうち下流側のメムの位置は『明治二十三年旭川地図』の喜平島付近、すなわち現在は亀吉と忠和の間で忠別川の河川敷となっている場所にあたる。これは松浦が『石狩日誌』のなかで大番屋元の手前に記した「メムブト」、永田方正が大番屋傍にあったとする「フシコピイェメム」と同じ場所とみられる。なおこのメムは、現在では忠別川、かつては美瑛川筋にあったが、古くは石狩川の枝川も流れ込んでおり、どの川筋とは言いにくい複雑な状況を見せていた場所である。
 常磐公園付近:『チクヘツフト支流の図』に描かれた上流側のメムは、現在の常磐公園の東側にあたり、6~8条の5~9丁目付近と思われる。かつて1条1丁目から9条9丁目にかけて高さ2mの段丘崖が走っていたが、この付近は忠別川扇状地の扇端部にあたり、段丘崖の各所からは伏流水が湧出していた。なおこの場所も現在では牛朱別川筋であるが、古くは石狩川の枝川が流れ込んでおり、正しく牛朱別川筋とはいいがたい場所である。

 旭町・本町付近:明治31年(1898)『北海道仮製五万分の一図』は旭町と本町にポンメムとポロメムの2川を描いている。ポンメムは現在の氷川(旭橋下流150m右岸の本町樋管で石狩川に合流)、ポロメムは川端川(新橋下流260m右岸の川端樋門で石狩川に合流)にあたり、いずれも湧出点は現在の花咲町の護国神社から花咲公園付近にある。なお永田方正がチポッメム(舟を囲う泉池)、知里真志保がチェポッメム(魚多く入る泉池)としたメムもこの付近かと思われるが、その場所は不明である。

 大正橋付近:『北海道仮製五万分の一図』の忠別川大正橋付近にチェポッメム(魚多く入る泉池)地名がある。 (*メム地名はほかにも、美瑛川の旭川市神楽付近にメム、美瑛川支流宇莫別川にパンケメムとペンケメムが確認できたが、これらはマスの産卵床と関わるものだったとみられる。愛別町にもペンケムメナイ川、パンケメムナイ川があり、これについては同川がサケの遡上河川であったことからサケの産卵床と関連する可能性もあるが、次に述べるようなメム地名の分布域から大きくはずれるのが注意される。

 これらのメム地名はいずれも標高100~110mのごく狭い地域に分布している。実は、この地域は上川盆地を構成する石狩川扇状地と忠別川扇状地の扇端湧水帯にあたる。上川盆地は扇状地の扇端が山地によって強制的に縮小され、一般の扇状地のように扇形に広がらない。そのため、この縮小する扇端部に湧水が集中しているわけだが、その扇端の湧水帯がまさにメムの分布する標高100~110mの地域なのだ。
 この湧水帯の分布とサケの遡上証言を総合すると、石狩川扇状地の扇端と忠別川扇状地の扇端に、それぞれ大規模な産卵場が形成されていたと考えることができそうだ。石狩川扇状地では北海道護国神社から北海道教育大旭川校、近文駅にかけての河岸段丘最下面、忠別川扇状地では石狩川との合流付近から緑東大橋にかけての河岸段丘最下面にそれぞれ産卵場が成立していたとみられる。
 だが、この2個所の産卵場以外にもサケの遡上・産卵証言が集中する地域がある。それは旭川市・比布町・当麻町の境界が接する突哨山付近の石狩川本流だ。石狩川ではここより上流に遡上するサケはほとんどいなかったとの証言もある。むろん、すでに述べたとおり愛別川が遡上河川であり、上川町層雲峡での遡上証言もあるから、突哨山より上流に産卵床の形成がまったくなかったわけではない。しかし、そうだとしても、この付近に大規模な産卵場があったために、そこより上流へ遡上する個体は格段に少なかった、ということはいえそうである。
 実際にこの突哨山付近の石狩川を歩いてみると、河床のいたるところに湧水がみられる。なぜここに湧水が集中するのか、その理由は明らかではないが、あるいは突哨山の岩脈にせき止められた地下水が石狩川に湧出しているのかもしれない。

4 サケ中心の生業はいつできあがったのか

 この上川盆地の3個所の産卵場の分布をみると、冒頭に述べた上川アイヌの3つの地域グループの分布と対応していることに気がつくだろう。上川アイヌはサケが群れる産卵場に集落を構え、徹底的に漁を行っていたようだ。
 ただし、ひとり石狩川上流の地域グループは石狩川上流の突哨山産卵場と重ならない。紙幅の関係で詳しく述べることはできないが、これは丸木舟の問題が関わっていたようだ。というのも、上川アイヌの集落は基本的に丸木舟の遡航限界を越えて設けられることはなく、石狩川本流の丸木舟の遡航限界は、ちょうど突哨山産卵床の下流側にあたっていたのだ。
 ところで、上川アイヌの集落が設けられたのは、もっとも低い段丘面だ。ここは河川改修以前の明治・大正期には大洪水のたびに冠水し、巨木に乏しく、草地と湿地が広がっていた。開拓期にはもっぱら鉄道や道路の敷地に利用され、居住地として認識されていなかった。上川アイヌは、洪水の被害を覚悟でそうした危険な立地に集落を構えていたのだ。
 開拓初期の入植者が展開したのは、これより一段高い中位の段丘面で、巨木が密生する鬱蒼とした森林地帯だ。伐開は困難だったが、土地が肥沃で洪水が及ばないため、いち早く開発されていった。3つの屯田兵村や第七師団の設置もすべてこの段丘面だ。
この段丘面の視点から縄文時代の遺跡をみると、その分布はアイヌ集落と対照的だ。縄文時代の遺跡は中位、あるいはもっとも高い段丘面上にあり、最下面の遺跡もいくつかあるが、そのうち1個所を発掘調査したところ、シカの落とし穴猟場の跡だった。つまり縄文時代の人々にとって、アイヌの集落がある最下の段丘面は猟・漁場であり、居住地としては認識されていなかった。それは和人の入植者同様、洪水被害をおそれていたからにちがいない。
 縄文時代の遺跡の分布は、サケの遡上河川や産卵床ともかかわらない。丸木舟の遡航限界より上流にも遺跡があり、そもそも川から離れた丘の付近に位置しているから、丸木舟を日常的に利用していたのではなさそうだ。上川アイヌの暮らしを規定したサケと丸木舟は、縄文時代の人々にはさほど大きな意義をもっていなかったようだ。上川アイヌを「川の民」とすれば、縄文時代の人々は「森の民」だったといえるだろう。
 この転換は、本州の平安時代に並行する擦文(さつもん)時代の中頃、すなわち10世紀ころに生じたものであったようだ。私はそこに本州との交易が深くかかわっていたと考えている。

参考文献

■上川盆地のサケの生態について
瀬川2001「上川盆地におけるサケの生態と漁法」『旭川市博物館研究報告』7
同  2002「富のヒエラルヒーとしてのサケ産卵床」『旭川市博物館研究報告』8
■上川アイヌとサケの関係について
同  2003「神の魚を追って-石狩川をめぐるアイヌのエコシステム」『エコソフィア』11(昭和堂・京都)
■サケ漁と交易の歴史的な展開について
同 2003「擦文時代の交易体制」『歴史評論』7月号(校倉書房・東京)

「北海道・淡水魚保護フォーラム No.4
 「川の環境と魚の豊かさ」(2003年7月13日、旭川市大雪クリスタルホール) 講演要旨
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